
2025年8月6日
哲学カフェ「コワイものはありますか?」を開催しました

ほのかな高台に広がる境内に到着した私は、そこからパノラマ状に展開する夕暮れどきの米子の街並みに見とれていた。
その会場は、煌々と西日の差す本堂の中にあった。
中に入ると、メンバーが静かに米仙堂のお饅頭を来場者に配っている。
「ようこそ、お越しくださいました…」どことなく、不気味なトーン。
そう。今回の哲学カフェのテーマは、「コワイものはありますか?」
それも、舞台はあろうことかあるまいことか、米子城主とゆかりの深い了春寺である。
7名が集ったところではじまりの時間。
ファシリの人だろうか。長い黒髪の女性が、ゆっくりと哲学カフェの開始を告げる。

参加者は、聞く者、語る者、それぞれが怖いものについてイメージを膨らませる。そして、参加者の記憶の奥底に眠っていた遠い日の想い出が、語り部から紡がれる物語をつたいゆっくりと這い登ってくる。
それにしても、米仙堂の饅頭はうまい。怖さとうまさで、私の脳はすでに混乱の極みにあった。

哲学カフェのルールに、「ここでの話はこの場だけで外では話さない」というものがある。
なので、たとえメンバーの話であったとしても、ここで内容について触れること はない。
でも、人にはいろんな怖いものがあり、それが実は人生に豊かな陰影をもたらしていることに気づかされる。

あれ?こんなに人いたっけ。
7名から始まったはずの哲学カフェは、知らないうちに11名に増えていた。
外をみると、あれだけ眩かった西日は朝日となって別世界を照らしにゆき、いつしか私たちのいる本堂は、暗がりにどっぷりと包まれているのであった。

参加者の最後の語りに一同肝をつぶして今回の哲学カフェはおわった。
片づけをして帰ろうとすると、いつの間にか本堂に和尚がいた。
座禅にあこがれているという参加者の言葉を鋭くつかみ取った和尚。
「いつでも座禅にきてよい。しかし、禅は座るという特別な機会を持たずとも、つねに実践できる営みである。仏教は不思議な力をもたらすもの ではなく、生き方を考える枠組みである」と訥々と語る説法が心にしみる。
この和尚はロックだ。
了春寺の和尚、いつか必ず座禅に伺うので、待っててください。
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